昔話 ・3
人間の耳というものは不思議である。聞いているだけだとそれはただの雑音かもしれないが、視覚と一緒に入ってくる情報と組み合わせると、その音は情報として理解されてしまうのだから。
ユリアンは底の抜けたバケツの縁に両足を乗せ、バランスを保ちながら、そうっと部屋の中を覗いてみた。
「やだやだやだやだーーー!!!」
その途端、サラの泣き声がやけにはっきりと聞こえてきた。危うくバランスを崩しそうになったユリアンだが、必死に窓枠を掴むことで事なきを得た。
ユリアンは、もう一度、部屋の中を覗いてみた。
部屋の奥で、サラが枕を抱きしめて泣いていた。その周りを囲むようにサラの両親、そして一歩後ろにエレンが立っている。
どうもこれは、サラが何か駄々をこねて、それを両親がなだめているといった光景だろう。それ以外には考えられない。
(変だな……)
部屋の様子をまじまじと見ながら、ユリアンは妙な違和感を覚えていた。
サラが泣いているのはいい。サラがわがままを言うということは、よほどのことなのだろうが、サラだってまだ六つの子どもだ。家族にくらい、たまにはああいう風にわがままを言うこともあるだろう。
ならば両親の方はどうか?それも問題はない。多少甘やかしすぎな面はあるが、それもいつものことである。
では、ユリアンが感じた違和感の原因は誰かと言うと――
(……なんでアイツ、あんなところに)
――エレン。サラの実の姉である。
エレンは、父がサラの頭を優しくゆっくりと撫でながら何事かを囁きかけているのを、少し後ろのほうからじっと見つめている。
ユリアンが違和感を覚えるのも無理はない。エレンは、他の誰にも敵わないほど妹思いの姉だからだ。
いつもならば、エレンはサラが泣いていれば真っ先に駆けつけて、泣き止むまで片時も側を離れることはない。サラをいじめようものならば、相手が大人だろうと、一切容赦することなく叩きのめしてしまうほどだ。
「サラはあたしが守る」というのが彼女の口癖で、サラもそんな姉によく懐いていた。どこに行くときも、二人はいつも一緒だった。
そんなエレンが、サラが泣いているというのに慰めることもせず、ただ後ろから見ているだけなのだ。
「やだ、やだぁ・・・」
サラが父親の手を振り払って、いやいやをする。父親は困惑した表情で、もう一度出しかけた手を引っ込めた。母親も、ただオロオロと二人の顔を見比べるだけだ。
『あの二人の悪いところは、子どもに厳しく言えないところだ』
ふと、ユリアンは眠りに着く前に、父が母にこぼしていた言葉を思い出した。あのときは誰のことを言っているのかわからなかったが、ここにきて『あの二人』とはエレンの両親だったのだと思い当たったのだ。
ユリアンはもう一度エレンの方に目を向けた。
(どうしたんだよ、エレン……)
窓の外で歯噛みする。エレンらしくない。いくら妹に甘いエレンとはいえ、わがまま放題を許すような娘ではない。本当なら、彼女は妹をぴしりと諫めるくらいのことはしているはずだ。そのくらい、彼女はサラのことを思っているはずなのだ。
どうしてサラのところに行ってやらないのか?どうしてサラを泣かせたままにしておくのか?そんな思いが、ユリアンの頭の中を駆け巡っていく。
(クソッ!何やってんだオレ!)
ユリアンは、自分のやっていることが、たまらなく恥ずかしいことに思えてきた。こんなことなら、あのとき家の中に入ってしまえばよかった。どんなに気まずくても、あの場所にいてやればよかった。そうしたら、自分のできうる限り、サラを慰めてやることができるのに――!
窓枠を掴んだ指に力を込めながら、ユリアンは自分の行為を悔いていた。奥歯を砕けるほどに噛み締めながら、もう一度エレンに目を向ける。
そうして気づいた。エレンは、震えている。エレンのチャームポイントであるポニーテールが、小刻みに揺れていた。
エレンは何かに耐えるように両方の拳を握り締めていた。後姿しか見えないが、きっと唇を噛んでいるに違いない。
だが、何故?ユリアンに新たな疑問が生まれた。
なぜエレンは、今すぐサラに駆け寄りたい気持ちを押さえつけてまでああしているのか?なぜ、そうしなければいけないのか?なぜ――
「もういい!!」
突然サラが大声を上げた。意表を突かれ、ユリアンは思い切りバランスを崩してしまった。腕を回しながら、バケツの縁でバランスを保とうとする。
「パパもママも、だいっきらい!!みんなだいっきらい!!!みんなどっかいっちゃえ!!!」
だいっきらい。
その言葉で、持ち直し始めたユリアンの体は、ゆっくりと宙を舞っていった。
世界がスローモーションのようにに動いていく。
目の中に、青く晴れた空が飛び込んでくる。
――だいっきらいだ!!しんじゃえばいいんだ!!!
ふと、誰かが叫ぶ声を、ユリアンは聞いた気がした。
「わあ!?」
派手な音を立てて、ユリアンは地面にひっくり返った。雑草がクッションになったのか、体に痛みは感じない。
ユリアンは慌てて立ち上がると、振り返ることなく、一目散にその場から逃げ出した。
その後姿を、エレンに見られていたということに気づかずに……。