昔話 ・2
ユリアンがエレンの家の前にやってきたとき、なにやら甲高い音が聞こえた気がした。
どこかで聞き覚えのある、どちらかと言えばあまり聞いていたくない音だ。
立ち止まって耳を澄ませてみたユリアンだが、次の瞬間には気のせいだということにして、エレンの家の玄関に近づいていった。
あまり深く物事を考えないところは、考えようによっては良い点ではあるが、悪い点でもある。
いつものように、まるで自分の家に入るかのように扉を開けようとしたユリアンの耳に、先ほどの甲高い音が聞こえてきた。さっきよりもはっきりとだ。
さすがのユリアンも、これはおかしいと気づく。なぜかと言えば、その音はエレンの家の中から聞こえてきたからだ。
扉のノブを掴んだまま、ユリアンは一瞬扉の前で立ち尽くしてしまった。それに追い討ちをかけるように、音はさらに大きく、さらに激しさを増していく。
(ヤバイ……コレ、サラの泣き声だ)
普段なら、慌ててサラの一大事に乗り込んでいくユリアンであるが、今回ばかりはこの先に入ってはいけないという直感があった。ノブから手を離したユリアンは、この後をどうすべきかを必死で考えた。
家の中に入るわけにもいかない。だからといって、このまま帰ってしまうと、昨日の約束が守れない。サラのこの泣き方は尋常ではないが、ただ単に、転んだか何かして派手に泣いてるだけなのかもしれない……。
だいたいそのような考えが、ユリアンの頭の中でグルグルと回っていた。不測の事態に、ユリアンの思考回路はゴチャゴチャに混乱し始めている。
「よし!」
一体どのような結論を出したのか、ユリアンは自信に満ち溢れた表情で顔を上げた。
「覗く!」
自身の背中を押すように呟くと、彼は玄関から家の裏側へと移動を開始した。
とりあえず、ユリアンが移動を終えるまでに、どうしてユリアンがそのような結論に至ったかを説明しておこう。
まず、エレンの家からサラの泣き声が聞こえる。本当は、サラの様子を知りたい。家の様子がどうなっているのかを知りたい。だけど家に入るのはまずい。ならばどうするか?覗くしかない。
……ユリアンらしい、短絡的思考である。情報を集めようという考えは評価できるが、そのための行動は評価することができない。物怖じしないということと、遠慮をしないということは、似ているようで異なることを彼はわかっていないようだ。
泣き声を頼りに家の裏側へとまわったユリアンは、サラの泣き声が一番はっきりと聞こえる場所を見つけた。サラの部屋の窓だ。正確には、エレンとサラの部屋の窓だ。
この村では珍しく、カーソン家には子ども部屋がある。開拓民のこの村では、子どものうちは親と同じ部屋で暮らすのが普通だ。そこまで大きな家を作る余裕がないというのが大きな理由だが、開拓者として生活を送るのなら部屋は一部屋で十分、それ以上は贅沢であるという風潮があるからだ。実際、家に入ってすぐ目の前にベッドがあるというのは、この村ではしごく当たり前の光景なのである。
それから、ひとりでも生活できるようになった子どもは、家を出て新しい自分の家を建てることで大人として認められるという風習があることも理由の一つにあげられるだろう。
とにかく、カーソン家にはそれだけの余裕があり、エレンとサラは特に可愛がられて暮らしているということなのだ。
ちなみに、もう一人この村で自分の部屋を持っている子どもがいるのだが――
「と、届かねぇ……」
――その話は置いておくことにしよう。
サラがいる場所を完全に把握したユリアンであったが、いかんせんその行動力と直感に見合った身長が足りなかった。つまり、届かないのだ。窓に。
懸命に爪先立ちでバランスを取りながら、部屋の中を覗こうとするのだが、ユリアンの身長で見ることができるのは部屋の天井だけ。もしくは窓枠だけだ。あともう五センチメートルほど身長が足りていればよかったのだが……。
「くっそ、こんな高い窓を作りやがって……もう、ちょっと」
窓は覗かれるためにあるのではないという世間一般の認識は、今の彼には通用しないだろう。好奇心が彼の善悪の判断を鈍らせているのである。
ほとんど意地になっているユリアンだが、さすがに自分だけでは無理だと判断したのか、いったん窓から離れると、何か足場になるものはないかと辺りを見回し始めた。
「おっ!アレ、いい!!」
ユリアンの視界に入ってきたのは、少し先にある農場と家を隔てるための柵。その下の方に転がっている大きなバケツだ。喜び勇んで駆け寄ったユリアンだが、期待は見事に裏切られることとなる。
「な〜んだ、底抜けじゃん」
一喜一憂激しい豊かな表情は、ユリアンの魅力の一つである。だが、今はそんなもの何の役にも立たない。ユリアンが欲しいものは唯一つ、安定性のいい足場だけである。
ユリアンはもう一度辺りを見回してみたが、他に目ぼしいものは見つからなかった。ユリアンは仕方なく、底の抜けたバケツを手に、先ほどの窓の下に戻ったのである。
いつの間にか、摩り替わってしまった自身の目的と一緒に……。